藤原の姓
藤原一族の栄華を、藤原鎌足を始まりにして、見ていこう。
藤原鎌足の旧名は、中臣鎌足といい、天智天皇とともに、大化の改新で活躍した。活躍の褒美として、藤原の姓が、与えられた。
つまり、藤原一族は、もともとは天皇の側近だった。
藤原氏 対 皇族
天皇の側近である藤原一族は、天皇の親族である皇族と、権力を争った。
藤原四兄弟が伝染病で亡くなると、皇族である橘諸兄に権力が集中し、740年に藤原広嗣が乱を起こした。
藤原氏の権力は不安定で、皇族との緊張関係にあったことがわかる。
令外官
権力の基盤として、藤原氏は令外官を利用した。
嵯峨天皇は、藤原冬嗣を、令外官の蔵人頭に任命した。令外官は、律令に規定されていなかった新しい役職で、藤原氏に特権を与えた。
摂関政治の開始
藤原氏は、娘を天皇の后とすることで、さらに権力を盤石にしていく。
平安時代の家族法に、妻問婚があり、出生した子供は、母方の実家で育った。
藤原氏は、天皇の外戚となり、藤原良房は、皇族以外で、初めて摂政となった。さらに、その子である藤原基経は、関白となった。関白も、令外官だった。
藤原一族の栄華
藤原道長と、藤原頼道の時代に、藤原氏は栄華を極めた。
氏長者の争い
しかし、並ぶもののいなくなった藤原氏にも、氏族なかで、氏長者を巡って、争いは残っていた。
一条天皇の后に、藤原道隆は、娘の定子を入内させていたが、藤原道長も、娘の彰子を、重ねて入内させた。
国風文化の後援者
藤原氏は、国風文化の支援者として、注目できる。
定子には清少納言が、彰子には紫式部が出仕し、日本文学の起源となった。
頼道が建立した平等院鳳凰堂は、今も残っている。
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