>経済史 律令体制の経済

 

ヤマト王権の経済

ヤマト王権の土地は、大君と豪族が、ばらばらに所有していた。
大君の土地は、屯倉(みやけ)と呼ばれ、豪族の土地は、田荘(たどころ)と呼ばれた。豪族は、地縁(ちえん)・血縁(けつえん)でまとまり、他の豪族と離れて、暮らすことが多かった。大君との関係は、不安定だった。
力のあるものが、ばらばらに存在しているのではなく、国というまとまった形を取った方がよいと、しだいに考えられるようになった。このような考え方を、中央集権(ちゅうおうしゅうけん)と呼ぶ。

聖徳太子と推古天皇

中央集権への道筋は、まずは聖徳太子の時代に始まった。豪族たちへ、冠位十二階が定められ、位が与えられた。天皇のもとに、豪族が仕える形ができあがった。
しかし、まだ土地はばらばらのままだった。

大宝律令と公地公民制

土地が、本格的に朝廷のものとなったのは、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)からだ。朝廷が、すべての土地を所有する制度を、公地公民制(こうちこうみんせい)と呼ぶ。
公地公民制のもとでは、中央から地方へ、国司が派遣された。また、土地に住んでいる豪族は、郡司(ぐんじ)と呼ばれるようになった。

口分田と班田収授法

朝廷は、民に、口分田(くぶんでん)を貸し与えた。口分田で生産した作物は、税金として、朝廷に納めた。この税金を、租(そ)と呼ぶ。租という漢字は、今でも、「租税」という言葉で、用いられる。
口分田を貸し与え、租を納める制度を、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)と呼ぶ。

租庸調と労役

どのような国も、民の負担は、2種類に分かれる。
1つめが、財産を納めることだ。
例えば、律令制の日本では、租として、農産物の稲を納めたが、加えて、調(ちょう)として、布も納めていた。
2つめが、労働で奉仕することだ。
例えば、庸(よう)として、土木工事の奉仕をした。また、防人(さきもり)として、九州の防衛のための、兵士として奉仕した。

公地公民制の崩壊

負担の重さに、口分田を捨てて、逃げる民もいた。戸籍のある土地を離れることを、浮浪(ふろう)と呼び、さらに租税を納めなくなることをを、逃亡(とうぼう)と呼ぶ。
浮浪・逃亡する民が増えていくことで、公地公民制は崩壊していく。
朝廷は、財源を安定させるために、土地制度を改革することになった。


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