>外交史 古代東アジアの交流

 

古代中国の歴史書

古代の日本列島には、話し言葉はあったが、書き言葉の漢字がなかった。だから、古代の日本列島の歴史は、古代中国の歴史書に詳しい。
漢帝国の歴史書の、漢書地理志(かんしょちりし)では、日本は倭国(わこく)と書かれている。
まだ国家にまとまりがなかったので、国名がよく変わったのだろう。
後漢書東夷伝(ごかんしょとういでん)には、倭の奴国(なこく)とあり、また魏志倭人伝には、邪馬台国(やまたいこく)と、書かれている。

 

遣隋使

聖徳太子の仕事を、国内と国外に分けると、歴史が理解しやすくなる。
国内の安定のために、603年に冠位十二階(かんいじゅうにかい)、604年に十七条憲法(じゅうななじょうけんぽう)を、定めた。
国外の安定のために、607年に遣隋使(けんずいし)を派遣した。
使節の代表は、小野妹子(おののいもこ)で、日本は「日、出づるところ(ひ、いづるところ)」と書かれている。

 

遣唐使

中国の王朝が、隋から唐に変わると、遣隋使も遣唐使(けんとうし)へと、名前が変わった。

 

遣唐使の中断

遣唐使は、中断したことがあった。国内では、672年に壬申の乱があり、国外では663年に白村江の戦(はくそんこうのたたかい)があったので、東アジアは不安定な情勢になっていたのだろう。

 

遣唐使の再開

701年に大宝律令(たいほうりつりょう)が完成したあとに、遣唐使は再開された。
大宝律令で採用された漢字は、現在でも、私たちの文章に用いられ続けている。例えば、「法律」と「政令」は、いずれも「律令」の字を含んでいる。
聖徳太子から始まり、天智天皇、天武天皇へと受け継がれた、中央集権国家の理想が実ったのか、日本は、やっと「日本国」と書かれるようになった。

 

遣唐使の終了

894年に遣唐使は終了した。遣唐使の終了によって、日本は藤原一族のもとで、国風文化が花開くことになった。

 

私留学の時代へ

東アジアの交流は、国単位から、個人単位のものへと、変化した。私的な留学は、仏教文化が栄える下地となった。

 

ダウンロード