法と力
平安時代には、律令や格式が整備された。しかし、法が整備されただけで、秩序が生まれるわけではなかった。いつの時代も、法を守ろうとするものと、法を力で破ろうとするものがいる。
武士の成長
力によって、法を実現するために、中央には検非違使(けびいし)を、地方には押領使(おうりょうし)・追捕使(ついぶし)が、置かれた。
押領使・追捕使に任命されたものは、地方で実力を蓄えて、武士として成長していった。
承平・天慶の乱
939年に承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱が起きた。
西国では、藤原純友(ふじわらのすみとも)が、大宰府を攻めた。
東国では、平将門(たいらのまさかど)が、関東の国衙領(こくがりょう)を攻めた。
事件の共通点は、2つある。
1つめは、どちらの反乱も、朝廷に従わないだけではなく、朝廷の役所を積極的に攻めた点だ。
2つめは、武士の反乱を鎮圧したのも、やはり武士だった点だ。
物事の解決に、武力が必要とされる時代となったので、誰もが武士を認めるようになった。
武士の出世
公家(皇族・貴族)たちは、武士に正式な地位を定めていった。
朝廷は、滝口の武者(たきぐちのむしゃ)を任命し、国衙では国侍(くにざむらい)が任命された。
武士 武者 侍
武は、力を意味する。武者(むしゃ)・武士(ぶし)の名前は、力によって物事の解決を、期待されていたのだろう。
一方で、侍(さむらい)は、そばに仕えるという意味だ。武士はまだ、公家に仕える立場にあった。
平氏と源氏
武士は、互いに主従関係を結び、源氏(げんじ)と平氏(へいし)の、2つの武士団にまとまっていった。武士団の指導者を、棟梁(とうりょう)と呼ぶ。
保元の乱
1156年、保元(ほうげん)の乱が起きた。
後白河天皇と崇徳上皇が争い、後白河天皇が勝利した。
後白河天皇に味方した武士には、平氏の平清盛(たいらのきよもり)と、源氏の源義朝(みなもとのよしとも)がいる。
平治の乱
1159年、平治(へいじ)の乱が起きた。保元の乱が、天皇と上皇の戦いだった。対して、平治の乱は、武士の棟梁の戦いになった。
平清盛と源義朝が争い、平清盛が勝利した。
平清盛は、武士としてはじめて太政大臣に任命され、権力を握った。一方で、武士から貴族になろうとしたため、仲間の武士たちからは、反発もあった。
スポンサー広告